ワイナポトシ登頂記-5


小屋を出てからほんの数十メートル岩場の道を歩いた後、プラスチック・ブーツにアイゼンを装着した。
ここから先は、全て雪と氷の道。

すぐに急な登りが現れた。ブーツとアイゼンが重たくて、思うように進めない。一昨日の練習で教わった、横向きになって足をクロスしながら登る方法か、それとも斜面の上に向かって足を逆ハの字にして登る方法か、どちらが楽かを代わる代わる試してみたけれど、どちらも辛さは変わらない。息ばかりがどんどんあがっていった。「まだ登り始めて30分も経ってないのに、もうこんなに辛く感じるなんて…」と暗い気分になった。

幸い、先頭を行くガイドのパオリーノはゆっくり登るペースを保ってくれていたし、わたしの後ろのラティーナもプレッシャーをかけるような追い上げをしてくることはなかったので、なんとか自分のペースで登ることができた。この最初の登りの30分が、最もキツイ部分のひとつだった。「もしこれが頂上まで続くようなら、ギブアップしてしまうかもしれない…」と思ったけれど、この後しばらくは、身体が慣れてきたこともあり、最初ほどは辛く感じることはなかった。

おおよそ30分に一回のペースで休憩。この時、水を飲み、チョコ食べて、コカの葉を口に押し込んだ。(コカの葉がどれだけ疲労回復に有効かは分からないけれど、気休めでも何でも、とにかく試してみた)はるか向こうにはラパスの夜景が輝いていた。一度だけかじかんだ手でカメラを取り出したけれど、その後はとても写真を撮る気は起きなかった。

休憩に入る度「やった、休める!」という思いと共に、少し憂鬱な気分になった。
なぜなら、休憩後に再び登り始めてからの5分くらいが、まるで途中で休んだ罰を与えられているかのように足のナマリが重たくて、辛かったからだ。
それでも「辛いと思うから、余計に辛くなるんだ」と自分を励まして、必死に違うことに思いを巡らせた。「これが終わってラパスに戻ったら、あれを食べよう…」この時なぜか思い浮かんだのが、ラパスのムリリョ広場の屋台で売られている3ボリビアーノ(日本円で約45円)のフルーツ・ポンチだった。この登山に挑戦した自分へのご褒美なら、もっと贅沢してもイイだろうに…と自分に突っ込みつつ。手っ取り早く自分を励ますのは、ご褒美に自分に与える食べ物のことだった。

次にわたしが試みたのは、過去の辛かった時を思い出すことだった。「あの時だって乗り越えたんだから」と。
なぜか、数年前の仕事の場面が次々と脳裏に浮かんだ。そう、仕事でも、いくつかの修羅場を乗り越えてきた。わたしは決して人並み以上の能力がある訳では無いけれど、いつでも意地と根性でやり切ってきた。今回だって、体力や経験は劣るかもしれないけれど「根性でなんとか乗り切れるはずだ」と必死に自分を鼓舞した。

登り始めて2時間くらい経った頃、次の難関が現れた。アイスクライミングの練習を活かす氷の壁だ。
練習した壁より傾斜こそ緩いものの、ヘッドライトの明かりだけを頼りに、ピッケルが上手く突き刺さる個所を手さぐりしながら登っていく。不安定な氷には、なかなか上手く突き刺さってくれない。所々に、クレパスがぽっかりと口を開いていた。登り切った時には、じんわりと冷や汗をかいていた。

ガイドのパオリーノは、休憩の度に「Como estas tu?(大丈夫か?)」と聞いてくれた。その都度わたしは、無理やりに笑顔を作って「Muy bien!(問題なし!)」と勢いよく答えた。
ガイドの判断で「体力的に無理だろう」とみなされ、下山を通告されるケースもあると聞いていたからだ。(実際に後で聞いた話で、何度もガイドから「もう下山するか?」と尋ねられて腹が立った、という人がいた)自分のためにも、ラティーナのためにも、歩ける限り撤退する訳にはいかなかった。

最後の難関は、5,900mを越えた、もう頂上までわずかという登りだった。この高さまで来ると身体への負担は思いのほか大きく、体力の限界が近づいているのも感じた。初めて、何度か休憩以外で足を止めて「I need to take a rest…」と言ってしまった。

わたしがピッケルを杖替わりにしてもたれ、呼吸を整えていると、先を行くパオリーノが何かを叫びながらグイグイとザイルを引っ張る。スペイン語の分からないわたしは「頼むから少しだけ休ませて!」と思いながらも、この急な段差のある斜面を必死によじ登ろうとした。
後からラティーナが教えてくれたことによると、パオリーノは「あと残り10m!」と叫んでいたという。わたしは怒鳴られて、怒られているような気になっていたけれど、彼なりに励ましてくれていたのだ。

東の空が白み始めた中、先に登頂したグループの人影の見える小さな頂上が見えてきた。
「あれが頂上か…」最後の力を振り絞って足を斜面に突き刺しながら、それでも実際にてっぺんに立つまでは永遠の時が流れるように長く感じた。

登頂達成まで約5時間。頂上は半径3mくらいの狭い場所だった。
立ってしまえば、なんともあっけなかった。

太陽が、橙色の光で世界を照らし始めた。
たった今登ってきた雪と氷の斜面もピンク色に染まっていく。
「なんとか、やりきった…」
感無量だった。