南米の仇をインドで打つ-2


数日後、結局シェアする相手が見つからなかったことが幸いだった。
わたし一人でガイドを雇ってストック・カングリの頂上を目指すことが決まったので、予定よりも一日ずらして、熱中症からの回復を待って出発することにした。

比較的対応が良かったことと、一番安い金額を提示してくれたことが決め手になって選んだ旅行会社。
当初は、わたしの本気をあまり信じていなかったらしく(無理もない。せっかくラダックに来たくせに、まともにトレッキングひとつせず、登山に行くことばかり頑なに主張していたのだから)、お願いしていた同行者をどこまで真剣に探してくれたかも怪しかったけれど、出発が確定すると、手際よく道具を準備してくれて、わたし一人のために、ガイドではなくシェルパを手配してくれていた。後から聞いた話によると、シェルパの日当は現地人ガイドの日当の2.5倍の額とのこと。

今回わたしと一緒に頂上を目指すガイドの名前はミンマ。インド北部のダージリン出身。
毎年、登山のオン・シーズンになると、故郷の家族の元を離れてここラダックに出稼ぎに来るらしい。
この辺りの山々は登り尽くしており、エベレストにも3回登頂したことがあると言っていた。
英語はそれほど得意ではなさそうだったけれど、初対面で挨拶をした時から、なんとなく「この人なら信頼できそう」と感じられたことが心強かった。
実際、この時のわたしの直感は当たっていたことを後から思い知ることになる。

必要な物をバックパックに詰め込んでいる時、旅行会社の人から「シェルパはポーターじゃないからね」と釘を刺された。そう、最安金額でツアーを組んでもらった以上、人間のポーターはもちろんロバや馬もつかないので、基本的に自分の荷物は自分で背負わなければならない。何度か登山にチャレンジする中で、他人に比べて自分の体力や気力に不足を感じたことはほとんどないけれど、普段キャリーケースで移動しているわたしは、圧倒的に肩の耐久力が無いのが弱み。
ワイナ・ポトシに登った時の記憶がよみがえってきて、出発前からちょっと憂鬱になったけれど、初日のロゥアー・キャンプまでの道のりでも、二日めのアッパー・キャンプまでの道のりでも、ミンマが常にわたしの疲れ具合いを気遣って、ほどよいペースで休憩を入れてくれたので、覚悟していたほどの辛さを感じることはなかった。

実際に出発してみると、同日ストック村からスタートして同じく三泊四日で登頂を目指す人たちが結構いて、驚いた。キャンプ場には、各々が寝床として持参したテント以外に、中央に大きなテントが張られていて、ミンマはそれを「ホテル」と呼んでいた。

今回わたし達は食料を持参せず、このホテルで朝晩の食事とチャイをとった。
ここで働いていたのはラダッキーの若者たち。あとで聞いた話によると、彼らの多くは大学生で、普段はバンガロールなどのインドの都市の大学に通っていて、休みに入るとラダックへ戻ってきて、学費を稼ぐために働くのだという。何時間も歩いた後の山の食事はいつも格別なのだけれど、彼らの作ってくれた食事の中でも特にわたしはトゥクパ(Thukpa)が気に入って「美味しい、美味しい」と言いながらホフホフと頬張ると、嬉しそうに何度もお代わりを勧めてくれた。

このホテルで休んでいる時、不思議なスイス人の青年に会った。
彼と話していて高山病の話が出た時、「念のために、ダイアモックスを飲んできた」とわたしが言うと、すごい剣幕で「そんな薬は飲むべきじゃない! 命を縮めるだけだ!」と注意してきた上、「You are crazy!」とまで言ったくせに、自分は「少し頭痛がするんだ…」とか何とか言いながら、一人でビール瓶を何本も空けていた(驚いたことにホテルには、大量のビールとラム酒まで備蓄されていた)。

その上、「違法薬物の売買が見つかって、最近まで刑務所に入っていた」なんてことを平然と言ってみたり、「精神障害の認定を受けたおかげで、今は保険会社から降りるお金で旅している」と自慢気に言ってみたり。
ただでさえ高所でフワフワした気分なのに、そんな話を聞いていると、自分まで頭がおかしくなりそうな気分になってきたわたしは、早々に自分のテントに引き上げて、なかなか寝付けないけれども、頑張って少しでも多くの睡眠をとろうと試みた。

その努力をあざ笑うかのように、夜半から降り出した雨は、夜が深まるにつれて激しさを増すばかり。
心配したミンマが、夜中にわたしのテントに様子を見にきてくれたほどで、気がつくと、雨はボツボツと容赦なくテントを襲撃するヒョウに変わり、絶望的な気分になった。
けれども、不思議と朝方には上がっていて、わたし達の行く手を阻むことはなかった。